・春惜しむ・行く春・ハルジオン・ハルリンドウ・イワカガミ

私の歳時記 No.68

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春惜しむ



行く春

 春の短さを惜しむ気分が強いまま夏になりそうです。
 今年(2006)は、雪が遅くまで降り、その後も日々が荒あらしく過ぎていきました。

 「春惜しむ」惜春(せきしゅん)、「春深し」、「春の暮れ」暮春(ぼしゅん)、また、そうじて「行く春」という季語は、晩春の季題です。芭蕉は、

行く春を近江の人と惜しみける(芭蕉)

と読みました。
 近江の国、琵琶湖の朧々たる風情を、時代も場所も遠く離れていながらわが身のことのように感じます。

 私は、いわばリハビリとしてこの歳時記をつくり、句作を(楽しむよりも)苦しみながら、私にとっての老いを生きる感動を味わえています。若い頃は、春を惜しむことなど思いもしませんでした。いずれも凡夫の煩悩がなせることです。

ハルジオン
 最初の写真がハルジオンです。野の花で、春から初夏にかけて咲く「雑草」がこのハルジオン、そのあと、ヒメジオンが夏から秋、遅くは初冬の野を彩ります。どちらも地味なので見過ごされる野の花です。
 よく見れば、小さいけれど、美しく繊細な花です。

ハルのリンドウ
 春に咲くりんどう(竜胆)に大きく三つの種類があるようです。ハルリンドウ(春竜胆)、フデリンドウ(筆・・)、コケリンドウ(苔・・)です。
 はじめて見た春のリンドウが左の写真。ほんとに小さく、可憐な花です。これを何リンドウと断定するか、私にはわかりませんが、根生葉のつき方からコケリンドウかフデリンドウのどちらか。まあ、俳句では「春のリンドウ」とアバウトに言えばよろしい、と逃げておきます。

イカリソウ
 日当たりの良い山道で、春の日ざしが暑く、わずかに歩いても汗がにじむ頃になるとイカリソウが茎を立てて、若葉と花をつけます。
 イカリソウとは、花の形が船のいかり(錨または碇)に似ていることに名の由来があるそうです。古くは、滋養強壮の薬草として知られていました。

 イカリソウは太平洋側に多く、日本海側に分布するものは、トキワイカリソウといい、常緑種といいます。写真にもわずかに見えますが(イカリソウ2枚目)、この地のものも、冬を越す葉があり、しかも言われるように葉に光沢がありますから、これをどちらかに即断できません。
 この地方は、夏は瀬戸内側、冬は日本海側の天候になり草木もふつうどちらかにしか自生しないもの双方が重なっている場合があります。
 そこで、これもやっぱりアバウトにしておきましょう。

イワカガミ
 イワカガミは、いちおう高山の花とされていますが、これは標高およそ500〜600m、とある山の中腹にありました。同じ群れに白っぽいものと紅色が濃いものがあります。
 いちばん下に、花が散り、葉が大きくなった写真を添えておきました。
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中途半端
 この土地は、米作に適し、豊かな自然に恵まれています。
 そして、新石器時代から縄文、弥生、古代・・と連綿とつづく歴史も知られています。
 しかし、米作に適しているとは、現代では、余り評価が高くないことも意味しています。気候も、暖かいといえば言えるし、雪もけっこう多く、寒いと言えば言えるのです。
 つまり、自然環境がとても中途半端です。

 この中途半端さが人間をも中途半端に育てているのではないか?というのが私の仮説です。
 このどうしようもないかに見える中途半端さにはいいところがあります。「ちょっと待てよ」という余裕がとれる可能性です。
 本来、人間は中途半端だからこそ、さまざまな環境に適応することが可能なのでしょう。

 だから、私も中途半端で、アバウトで、だけど、政治家が言うような意味で「郷土」を愛することはなくても、自然と人を愛しつづけ、しかも、俗情に批判的でありうるのです。
 政治が俗情につけこみ、人々をマインドコントロールしはじめると歴史は大きな過ちをおかす危険があります。。
 いま、私は、そんな時代の危機を感じています。

人も旅人われも旅人春惜しむ(山口青邨)

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