ほととぎす
谺して山ほととぎすほしいまま 久女(杉田)
古来、夏の代表的な季語とされたが、近年、大都市では鳴き声を聞かず、影がうすい季語となった。
(季語「山ほととぎす」または単に「ほととぎす」)
2004〜2005年の夏、わたしは、住まい近くの山谷で啼くほととぎすに魅せられた。
一夜、眠れぬまま、ほととぎすを聞き、さらに翌日も夕刻までききつづけたのだった。
その丸々一昼夜中、久女の句が脳裏をはなれなかった。
姿は見えないが、昼も夜も啼き通す。啼くとき開ける口舌が赤くみえ、血をはくかのようだといわれ、
<泣いて血を吐く子規(ほととぎす)>
正岡子規は、自分が血を吐く病だから「子規」すなわち「ほととぎす」を名乗ったという。
ほととぎすは、子規と書くほか、時鳥、不如帰・・など、いろいろな書き方をされる。
「聞きなし」に、「てっぺんかけたか」「特許許可局」などがある。
かまくらにて
目には青葉山ほととぎすはつ松魚 素堂(山口)
ほととぎす平安京を筋違に 蕪村(与謝)
ほととぎすあすはあの山こえてゆかう 山頭火(種田)
谺して山ほととぎすほしいまま 久女
昭和6(1931)年作。「英彦山六句」中の一句。(谺=こだま)
透き通るようなほととぎすの鳴き声が、英彦山(ひこさん)の全山にこだまして、ほしいままに鳴きわたり、
それをまたほしいままに聞いている・・久女はそういうのだろう。
久女、円熟期の代表作。
俳句をつくる歓びがあふれるが、「ほしいまま」に、独創がある鬱屈を感じさせる。
これが久女の俳句の特徴だろうと思う。
句の構成は、
上・「して」で動きを感じさせて、次のイメージの喚起をうながし、
中・「山ほととぎす」で、夏山の大きく深い景をくっきり描く。
下・「ほしいまま」という大胆なことばで、解放感あるいは自己解放への熱情を読める。
独特の表現。
この句は、高浜虚子選の「日本新名勝俳句」公募で特選・金賞を得ている。
そのときの金賞に、
<啄木鳥(きつつき)や落葉をいそぐ牧の木々> -赤城山- 水原秋桜子
<滝の上(え)に水現れて落ちにけり> -箕面滝- 後藤夜半
がある。
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ほととぎす平安城を筋違に 蕪村
ほととぎすが、京のまちを筋違(すじかい)に、啼きわたる。
壮大な句だ。
夜のほととぎすと解していいのではないか。
この句と
<月天心貧しき町を通りけり>
などをあわせ読むと、
画家・蕪村の傑作「夜色桜台雪万家図」が日本絵画史上はじめて獲得したともいわれる<俯瞰図的>な視線(構図)が感じられる。
それは、作家の視座があらたな<虚点>をとりえたことを意味する。
いいかえれば、蕪村自身が、
「月」ともなり
「ほととぎす」ともなる
目を持った、と理解していいのではないか・・。それは、画期的な表現なのだと思う。
近代的な視座にたつ「風景」がこの一句にも感じ取れる。
↑ 「ほととぎす」と呼ぶユリ科の花