・鬼やんま

私の歳時記 No.41

トップページ|前のページ |次のページ

「・・歳時記」索引

鬼やんま

[特別エッセイ]<老い 1>

<鬼やんま>

 もはや老いて翅やすめおり鬼やんま (しぐれ)

鬼やんま
 鬼やんまは夏の夕方をさわやかに飛行する。他の蜻蛉とはちがって、水平にそして直線的に、同じスピードで同じコースを滑空する。人が鬼やんまになったらどうだろうか、などと他愛もないことを思う。鳥になったら寂しい、と書いたのは椎名誠だったか。

 秋になって、鬼やんまが産卵するシーンに出会った。訪れる人もほとんどないしずかなため池である。ひつじ草の葉にとまり、水中の茎に卵を産みつけているらしい。

その後のある日、庭に立てた細い杭に鬼やんまが翅をやすめる姿を見た。翅は透明さを失いかけて白っぽく、よく見ればいくらか傷んでいる。私はいく分はやる気持ちを静めながらシャッターを押した。

〈老い〉のこと
 私は芭蕉が没した年齢よりわずか数年若くして俳句をはじめた。
 芭蕉行年51歳(1644〜1694)。元禄7年10月12日。大阪。亡くなる二日前、病中吟〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉を遺した。
 芭蕉は40歳のとき江戸深川の芭蕉庵に入り、翌年『野ざらし紀行』の旅に出るが、すでに、この頃から翁ぶりを示していたと思われる。人生五〇年といわれた時代。40歳にして晩年を自覚することがそれほど奇異とは思えない。当時、隠居は40歳になると行われていたらしいからむしろ普通のことだったかもしれない。
 私が芭蕉の没年をいつ知ったのか定かではないが、それにしても、いろいろな伝絵やイメージに思い描いていた年齢は少なくも七〇歳あるいは八〇歳を越える感じである。たとえば、そうしたイメージを親鸞(1173〜1262)の八十九歳に比すれば、芭蕉の〈老い〉はやはり余りに早い感じがする。あれこれ思うに、〈老い〉は実年齢とは微妙に異なって時代性とともに好むと好まざるとにかかわらず、個人差があるものだろう。
 私は自分を早く〈老い〉るタイプだと思わざるを得ない。これは、私自身のアイデンティティ(この際「自己認識」という程度の意味)ともかかわる。それにしても俳句を晩くはじめた。散文と現代詩、そして批評から俳句を作る気持ちになったので、ずいぶん遠回りをしたことになる。

悔いはすべてここに捨つべし萩の道 (時雨)

 萩が咲きこぼれる山の道で、棄てるべきものごとをも捨てきれぬまま生きてきたわが老骨を悔いた。というよりは、いま、棄てるべきものごとで、やすく捨て去ることができるのは、多くの悔いしかないと観念したのである。悔いは記憶に宿る。
 かといって人生全体を悔いるわけではない。さまざまな葛藤や矛盾、混沌、無明をよく生きたと言えばよく生きたのだと思う。こうした自己肯定も年を重ねることによって得たことである。


「小自然」
 さて、一年余り前から自分のホームページをつくった。やがてそこに「私の歳時記」と題したコーナーをつくり、内容は次第に山野草を中心にした写真と文章に変容した。成り行きであった。
 幸いにも今年は草木の花がよく咲き、よく実った。余りにも多くのことを知らないために苦心することもあったし、それゆえのミスも多かったが、よきパートナーのおかげもあり、ともかく時々山野に出かける機会を得た。思うに任せられない病身ゆえ、自動車が入る場所からわずかに歩く程度のことである。それも、自宅近辺に限ることを原則にした。いわば定点観測である。しかし、あらためて、自然の懐の中にころがりこむ気分はした。

マスメディアに主導されるいわば「大自然主義」に対して、私が棲んで生きる場所は小さな自然、小自然である。ここはささやかな自然の片隅、そこが端末でもあり原初でもあるそんな時空だ。
 だから「私の歳時記」は、自然の四時の気分を伝えることだけを志向し、あとは、雑草や珍しい山野草などなんでも目に触れれば素材としているに過ぎない。若い頃こんなふうには、自然に目もくれなかった。もったいないことをしたと今では思う。しかしそれもまた人と自然の関係。いま、身近にあり、触れることができる自然を自分なりに堪能できればいい。

(2005.11記)