ありゃま通信 俳句の頁

いい句好きな句

季語・キーワード別

トップ・ページ|▲総合索引

●キーワード

●戦争


<戦争>または戦争にかかわることばは、季語ではないが、季語と同等以上のインパクトをもつ。
いまや、「戦争を知らない」親の、その子どもたちが大人になり、戦争体験は「伝承」の範疇に入って久しい。
同時に、1945年、第2次世界大戦・太平洋戦争の日本帝国の敗戦は遠い歴史になった。
しかし、イラク戦争など世界中で戦争はつづいており、世界は、20世紀から21世紀まで、絶えることなく戦争の惨禍をまぬがれることがなかった。
先日、天皇夫妻がサイパン島を訪れ、慰霊碑や戦争の跡を慰霊した。
その報道の中で、バンザイ・クリフやスーサイド・クリフから飛び降りた女性の映像がながされるなど、話にしか聞いたことがなかった衝撃的な映像を見ることができた。
生き延びた人々は高齢で、その体験談は胸を打った。「戦争をしてはいけん」・・その言葉は、あまりに重い。

戦争が廊下の奥に立ってゐた     渡辺 白泉

戦争と並んでいたり露の玉       鈴木六林男

戦争と畳の上の団扇かな        三橋 敏雄

京大俳句事件では、当時の「新興俳句」をになった白泉など多くの俳人が弾圧された。その系譜に、六林男や敏雄らがつらなる。治安当局によってその思想が危険とみなされたのだ。「挙国一致」全体主義は、俳句どころか夢の中味まで検閲し、弾圧し、拷問し、殺しつくす。ニッポンナショナリズム、ナチス・ヒトラーばかりではない。スターリンも同じだ。
文学は、このような全体主義の対極にしか成立しない。


戦争の句

<銃後 敗戦 銃弾・・ >⇒原爆・被爆・広島・長崎はこちらへ>>>

たとえば「銃後」ということば。戦争の、その戦場の「うしろ」、つまり「内地」を意味する。兵隊あるいは従軍するもの以外のすべての者が「銃後」で戦うことを強いられた。

銃後という不思議な街を丘で見た    渡辺 白泉

渡辺白泉は、銃後という街を「不思議」と見ることができた。戦争に駆り立てられた人々は、自分がそういう「不思議」な場所に生きていることを疑えなかったし、まして、表現する「ふつうの」感覚を奪われていた。

殺された者の視野から我等も消え    鈴木六林男

射たれたりおれに見られておれの骨     〃

鈴木六林男は、おそらく「射たれたり」の時の戦傷で体内に弾片が残ったままで戦後を生き、2004年12月に亡くなった。

地雷踏む直前のキャパ草いきれ     六林男

六林男の追悼特集に(「俳句研究」2005・3月号)、この句を掲げ、スペイン内戦、インドシナ戦線、・・そしてサイパンのバンザイ岬を思い出すと書いたのは、池田澄子である。
写真や映像に撮られた人々が、その「直前」まで、その瞬間まで「たしかに生きていたのだ」と。

戦友ヲ葬リピストルヲ天ニ撃ツ       西東 三鬼

射ち来る弾道見えずとも低し        三橋 敏雄

あやまちはくりかえします秋の暮      三橋 敏雄
 ↓
「原爆」のページ

戦争は人を柱と数へたり           助田 素水

たとえば「靖国神社」の問題は、そこに「英霊」として祀られる軍人戦死者が、戦争犠牲者ではなく、まして「戦犯」としてでもない。仮想された神である「英霊」は「柱」であり、人数として数えられることもない。
少なくともこれまでは、靖国神社に女性が祀られている話は聞かない。(ニホン神道に天照大神いがい女性の神はいないのだったか・・?)

戦争と女

戦争と女はべつでありたくなし        藤木 清子

戦死せり三十二枚の歯をそろへ         〃


15年戦争末期、女たちは竹やりや「なぎなた」をもって「銃後」を守るつもりでいた。はじめから「戦争と女」はべつではない。
だが、とくに20世紀以降の戦争で死ぬのは兵士に限らず、老人や子どもたちに加えて女性でもある。
かつて女たちは、男を戦場に送りつづけた。これからは、女性兵士は増えつづけるだろう。
20世紀の末、世界各地の「内戦」で、女たちはみずから戦場で戦った。戦争が好きなガキにつきあう必要はまったくないのだが・・。(この項つづく)

ページのトップ