咳をしても一人(尾崎放哉)
野の花歳時記 番外の外
■放哉の1句、となれば、やはりこの句になってしまう。
小豆島・南郷庵時代の句。気管支炎、喉頭結核を患っていた。
■尾崎放哉。1885年(明治18)〜1926年(大正15)。42歳。鳥取県生。香川県小豆島南郷庵にて死去。後半生は漂泊の人生だった。Ozaki
Housai
生涯作句1,314句D。名句は、いずれも短律、および無季。
■「咳をしても」と<墓の裏へ廻る>は、9音。放哉の句中最短の短律。
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■出家・漂泊の人生
俳句は「1行の詩」であって、それ自体として完結し、それのみによって鑑賞・評価できるものでなければならない…という言い方がしばしばなされる。
だが、ほんとうにそんなことが可能だろうか。率直に言えば、私はいま、それは無理だと考えている。
俳句こそ、作者の人生、時代・社会(歴史社会)の背景においてじゅうぶんに鑑賞され、解読されるべきある種暗号のような文芸作品だと思う。それは、見方によればどんな芸術作品、直接には文学作品についても基本的には同じことが言えるので、俳句についてとくに強調されることでもない。
放哉は、俳句作家の中でも有数の、あるいはもっとも天才的存在といえる。
放哉の人生は、いわば破滅的であり、最後は俳句だけがともにあったといえるような、激しく下降する人生だった。
俳句作品は、静かで、淡々とした深さを湛えており、孤独である。
また、漂泊とはいいながら、旅とは無縁な、多動的でなく、落ち着きさえ感じ取れる。
そこが、同じ時代、同じ漂泊と出家・乞食(こつじき)を生きた山頭火と大きく異なるところであろう。
■放哉の墓をたずねて
小豆島を訪れたとき、南郷庵跡(西光寺庵。今は尾崎放哉記念館になっている)を訪ね、隣接する墓地に放哉の墓を訪ねたことがある。その墓所の中でも小さい部類に入るだろう、丸みを帯びた自然石の墓石の周りはぐるっと、墓を訪ねた人々の足跡で踏み固められた径ができていた。なるほど、放哉を偲ぶ人たちは、「墓の裏に廻」ってみるのだろう。
このとき、わざわざ小豆島へ行ったのは、わが仏師・杉本正信師(故人)の主宰されていた教団宗派を超えた集まり、「在家仏教・本願海」の集会に参加するのが主たる目的であった。
師は、このときすでに『空海さま さようなら 親鸞さま こんにちわ』という著を出しておられた。
なんと師は、放哉の最晩年の世話をした真言宗の大寺・西光寺の、前の住職・杉本宥玄師(俳号・玄々子)の実子で、長く住職をつとめられたのち、真言宗を捨てて、浄土真宗へ転宗された驚くべき求道の人・同行であった。
南郷庵は西光寺が放哉に提供された。
私は、南郷庵と放哉、正信師が結びつくとは考えてもいなかったので、そのことを師に話し、師が編集された『多くを語らず―玄々子の世界―』Fをいただいたのだった。
< 少し生きすぎたと思ひ杖のよろしきを思ひ 玄々子 >
このようなことは、私の側から見た仏縁である。「本願海」とともに忘れえぬ出会いである。
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参考文献
@AB『尾崎放哉』3巻/C『放哉評伝』村上護・1991・春陽堂文庫
D『尾崎放哉全句集』伊藤完吾・1993・春秋社
E『海も暮れきる』吉村昭・1985・講談社文庫
F『多くを語らず―玄々子の世界―』釈正信編・1995・ヴィハーラ・プラサータ