+歳時記(山野草と情報管理)A

私の歳時記

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<山野草+個人情報>


▲ここ山里では、リンドウが咲くと、いよいよ晩秋です。
ノコンギクが薄紫の色を深めて隣り合っています。

「山野草の保護について」2006年10月21日 記

■「山野草 違法採取許せぬ」「ネットで情報」という新聞記事(10月21日付33面)の前で
感情的になりそうな自分を、しばらくおさえました。「比婆・道後山や帝釈峡」と白抜き見出しに、
「根こそぎ例も」と見出しをたたみかけます。リードでは、
「希少な植物情報がインターネットで流れており」
とされ、本文では、
「最近はインターネットで植物情報を得るようで」...というふうに、記事は、山野草の「違法採取」の「原因」?が「インターネット」情報だと書くだけで、他の「直接的な原因」に言及するわけではありません。

■でも、それはおかしいのではないでしょうか。少なくとも、インターネットをひとくくりに「悪意」ある情報、または「悪意に直結する」情報としか見なさず、マスメディアはそれを告発する「善」、「正義」であるかの主張は、私にはとうてい受け入れがたい見解です。

■なるほど、希少植物の違法採取や環境悪化という問題は、避けて通れない問題です。
 他方、希少植物をどう守るかは、特別の配慮と措置を必要とするにしても、全体として「野の花々」を愛好する機会は、望むならば、だれをも排除しないことはまた自明のことです。
 したがって、インターネットで「違法採取のための情報」…

(これは実際はありえないから、この「野の花歳時記」の類なのでしょうが!これを「未必の故意」と見なされれば何をかいわんや、です)
…を流すのは論外としても、豊かな自然情報を提供することに何の問題もあるわけではありません。

■それどころか、この「野の花歳時記」は、身近な自然のすばらしさを、生活感を持って楽しむために提供しています。そこに、貴重な自然を破壊する意図などあるはずもありません。
 自然を保護することは、そこに、どんな自然があるか、まず、そのすばらしさを知る必要がある、と考えて作成、公開しています。

■つぎに、ちょうど1年前の「歳時記」に掲載しました編集者のスタンスを知っていただきたく「再掲」します。


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[再掲]2005年10月記(「私の歳時記」当時より)

個人情報とともに「自然情報」を守る

歳時記と個人情報
 この「私の歳時記」の写真が、ほとんど、民家や人の姿が映っていないものに終始していることにはお気づきと思います。
「田舎」に住んで、インターネットに写真公開する場合、民家もすぐに特定される危険を肌身で感じます。顔写真はもちろん、それとわかる人物像、民家も個人情報として安易に公開することはできないと考えています。
 そのため、やや開放感に欠けますが、これは当然の成り行きと思っていただき、ご理解下さい。

「自然情報」?!
 植物観察をするとき、深く注意する必要があることはご存知のとおりです。
 たとえば、あるジュニア向けの本(『草花のふしぎ世界探検』ピッキオ編著・岩波ジュニア新書*)は、おもに次のことをあげています。私なりにまとめてみますと、

(1)野生の植物をもち帰らない。
(2)珍しい花などをみつけたとき、みだりにその場所を公表しない。
(3)撮影などするとき、花を踏みつけたりして自然を傷めない。

要するに、草花やその環境に悪影響を与えない、ということです。
 とくに、安易に場所を特定しないことは、現在、多くの山野草が絶滅の危機に瀕している事情を知れば、必須のことではないでしょうか。
 「私の歳時記」は、いわば定点観察ですから、とくに地名などの固有名詞は注意深く避けています。
 「この丘」は、特定できても、草花のありかはちょっとやそっとではわからないと思います。私は、この歳時記にもし興味をもたれたら、その方が「自分の丘」(別に「丘」でなくてもいいわけですが)を「持って」いただきたいと願います。いや、そんなことまで考えず、気楽に読み流してくだされば、それでも自然と季節の気分は伝わるのではないかと期待しているだけです。
 あしからずご容赦ください。

 

『草花のふしぎ世界探検』ピッキオ編著。この本は、この春(2005.3)発刊されたものですが、とても参考になります。
 難しい図鑑も欠かせませんが、それは膨大精緻なもので、私のような素人には少年向けのガイドブックなどの方がありがたい場合が多いのです。いわゆる「学習図鑑」関係も便利です。
 なお、高価な図鑑類は図書館の蔵書を利用しています。

「歳時記」としては
 歳時記はもっとアバウトでいいでしょう。
 しかし、ここでは、内容をほぼ自然に限り、自然のこまかなところをみたいというモチーフなので、俳句には必要ないこともとりあげています。
 このことで、自然が持つ季節の気分とでもいえるものを感じ取りたいのです。
 私には、それ以上の余裕も時間もありません。「いま、このとき」を逃したら、さきざき再びのチャンスはないものと思い込んでいるからです。

「けものみち」
 里山でもちょっと注意深く見るといわゆる「けものみち」に出会います。
 人間が、いや、私が、草原の同じ場所に通うところでは10回も歩けば、もうしっかりとした「みち」ができてしまいます。そのことは避けられないのですが、立ち入る場所を傷めたために草花の環境に悪影響を及ぼす恐れが、ごくかんたんに起きてしまうことを忘れたくありません。

里山保全
 他方、里山は、人手が加わることで、その独特の環境が維持されてきたのでもあります。
 いま、とくに農業の変化によって、草が刈られる範囲が狭まり、山林の利用が激減したために、山は荒れ放題になっています。これは生活の変化に伴う避けがたい流れです。
 しかし、自然への興味と関心が薄らぐことは、人間にとって最大のピンチにつながるのではないでしょうか。

 「国破れて山河あり」と悠長なことを言って自然を甘く見ないことが必要です。世界各地の戦乱場所は、とくに兵器の破壊性が強まって以来、人間によって山河が徹底的に破壊された姿をしめしています。そこでは、人間が生きていけない状況になってしまう例が多いと思われます。(2005.10.15記)

 なお里山保全、里山ウォッチングのガイドとしては、同じジュニア新書『里山を歩こう』今森光彦著が手ごろです。

▲けものみち(「いのしし」道と思われる)

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