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乳房 (乳)


なぜ「乳房」なのか?

おそるべき君等の乳房夏来る     西東 三鬼
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎   竹下 しづの女*「須可捨焉乎」すてっちまおか
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂 信子

これらの名句を読むと、季語と同じかあるいはより強く「乳房」という1語がキーワードをなしていることに気づく。
「乳房」をキーワードとみて、ここに「歳時記」や句集・撰集などにある句を集めてみると、驚くべき迫力の作品群ができる。
「乳房」をどのように読む・詠むかはひとまずおいて、まずは、秀逸な作品群をみていただきたい。

[目次]
  1 乳房の句
  2 問題の現在性
  3 ろくでなし(身体性の獲得)new!


3 ろくでなし(身体性の獲得)new!

『みだれ髪』は、「髪」の歌集ではなく、「乳房」の歌集だ。

と看破した道浦母都子はさすがだと思う。(『乳房のうたの系譜』1995筑摩書房)

乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる  辰巳泰子『赤い花』
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 *伊藤比呂美『手・足・肉・体』より

最近、この1首を数回読む機会があった。
この歌は、まさに20世紀後半の時代性を顕すものだろう。(辰巳泰子・1966〜『赤い花』1989 *つげ義春の「赤い花」を知っての作にちがいない。)
たとえば、中城ふみ子生前唯一の歌集『乳房喪失』にある歌を読めば、対比は鮮やかである。(中城ふみ子1922〜1959/『乳房喪失』1954)

冷やかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲へり
もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず
枯れ花の花環を編みて胸にかけむ乳房還らざるわれのために

乳房の句歌のまえで、男は「ろくでなし」でしかない。
俳人は、いや詩人はみな「ろくでなし」だから、乳房に驚嘆するか、うそぶくしかやりようがない。このテーマはやっかいなのである。

与謝野晶子の歌は「やは肌」
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
こそ高名だが、乳房の歌を忘れてはなるまい。

乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き 与謝野晶子[みだれ髪]
春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ     〃
みだれごこちまどひごこちぞ頻なる百合ふむ神に乳おほひあへず  〃

これらは俳句ではできぬ世界、俳句にはならぬ世界かもしれない。
これに対して「俳」者は、もっとぎりぎりの位相で堪えるしかないかに見える。

実石榴のかつと割れたる情痴かな     鈴木しづ子
花吹雪岐阜へ来て棲むからだかな       〃

鈴木しづ子の作品群は「性愛俳句」と呼ばれる。
そして、日野草城の初期「フィクション俳句」?<ミヤコホテル>たとえば、

けふよりの妻と来て泊つる宵の春 (泊つる=はつる)

などは「あぶな絵一歩手前」(野見山朱鳥)などと議論の対象になった。これを黛まどかは
「“あぶな絵一歩手前”で踏み止まる辛抱こそが、俳句の真骨頂であると思う」
と書いた。(『知っておきたい【この一句】』)しかし、野見山も黛も、その見方はやや傍観的と言える。

これらに共通して見出せるのは俳句における〈身体〉性の獲得という新たな課題であろう。しかも<身体性>において、いつも男は傍観的であった。
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*マン・レイによるリー・ミラーのトルソ

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1 乳房の句

おそるべき君等の乳房夏来る      西東 三鬼(季語「夏来る」夏)

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎   竹下 しづの女(同「短夜」夏)*「須可捨焉乎」すてっちまおか

ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき   桂 信子(同「梅雨」夏)

すばらしい乳房だ蚊が居る        尾崎 放哉(無季)

はじめ、わたしはこれらの句をいちどく瞠目させられた記憶があざやかである。
三鬼の「おそるべき」乳房。
しづの女の「須可捨焉乎」(すてっちまおか)という漢詩的表現。乳飲み子のわずらわしさ、育児の憂さ、それは同時に子への愛でもあろうが、育児が安易に美化するだけではすまない、激しくも普遍的な感情といおうか。
そして、桂信子の「乳房ある憂さ」という男には知る由もないこと。しかし、何かわかる感じ。
放哉は「蚊が居る」と詠うことで乳房をいっきに具体化する・・。「すばらしい」というイメージがわく。
これらは、ここにあげた各俳人の傑作であり、同時に「近代美術」とひびきあう俳句の傑作である。

これらに加えて、さらに次の句がある。

乳垂るる妻となりつも草の餅      芥川 龍之介(季語「くさのもち」春)

麦秋や乳児に噛まれし乳の創     橋本 多佳子(同「麦秋」春)*「乳児」ちご

わが乳房掌に小さしや夏了る      小坂 順子(同「夏了る」秋)*「掌」て 「了る」おわる

稲架の上に乳房ならびに故郷の山  富安 風生(同「稲架」秋)*「上」へ(え) 「稲架」はせ

乳房に ああ満月のおもたさよ     富沢 赤黄男(無季)

乳房掠める北から流れてきた鰯    金子 兜太 前詞「竜飛岬にて2句」(無季)

また、現代俳句協会が編集した「現代俳句歳時記」の『無季』には、「乳房」の項目があり、

乳房を点すしづかなものが野からくる     小林 美代子

山のいでゆのちちいろちぶさかくれるほど   斉藤 玉枝


など五句があげられている。
そのほか、

乳房みな涙のかたち葛の花           中島 秀子

など見るべき句は多い。
これら全体が、俳句作品の中で、「乳房」というキーワードでくくりうる句群をなしている。

2 問題の現在性
いちどく、同じ乳房を詠んでも大きく異なる二つの内容(ヘンな表現かもしれないが「傾向」と呼ばれるような)があることがわかる。
1つは、いわば母性の象徴としての「乳房」である。肯定的と否定的という真反対の見方がある。
2つは、「おんな」性、ジェンダーからの解放の方向性をもつ身体性の表現といえる。上野千鶴子は、それを「身体俳句」と言った。
この2つは、多様に入り組んでいて、たとえば、どの句がそのいずれかという明確な区分はむつかしいし、いずれもどちらかが100%と、言えるわけでもない。

もともと俳句の出発において、子規以降の虚子の『ホトトギス』は「台所俳句」のコーナーを別に設けて、女性俳句の「新興」を目途した。
現在、そのことは「時代性」とみなされてか、あらためて議論はされない。俳句だけの問題とも言えないからだ。
しかし、ジェンダーと性差別のなかのマイノリティとしての女性、マジョリティであるゆがんだ男性の問題は、現在の大きな問題である。
たとえば、杉田久女の「ホトトギス」除名という悲劇の背後に、<女性・性>の問題があったことは否定できない。彼女は「台所」の中で窒息していたから・・。
以来こんにちまで、この問題は解決されたわけではないだろう。避けて通るわけにはいかない問題だと思う。

こんにち、俳句はその大部分を女性によって担われていることも否定できない。
このことを議論することが俳句を論ずる場合一つの大きな軸である。


(以下、この項は随時追加する予定です。)


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