■菜の花(花菜・菜種の花・油菜 ⇒花菜漬け・⇒菜種梅雨)
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
蕪村の句の中でも、もっとも人口に膾炙している一句だ。菜の花の咲く頃、日が西に傾き、月は東に出ている、という「そのままの」句であろう。
一句が大きい。わずか17音でここまで大きく広いイメージを描けるのが蕪村の類まれな表現なのだと感じ入る。
菜の花(菜種油)はいま、環境にやさしいエネルギー源としてふたたび注目を集めはじめている。化石油ばかりに依存して、その有限さと汚染作用を度外視してきたことの反省にたってのことである。それは、効率最優先の企業論理に対抗する住民運動として、この地域でもおおいな支持を得ている。
菜の花は、見て好し、食べて好し、エネルギーとして好しと3拍子が揃っている。
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菜の花や淀も桂も忘れ水 言水
「忘れ水」は、野中などに絶え絶えに流れて、人に知られぬ水(広辞苑)のこと。淀や桂川が忘れ水のようにかえりみられず、菜の花が人々の目をひきつけている、という近世俳句の諧謔(かいぎゃく)。
菜の花のはるかに黄なり筑後川 夏目漱石
漱石の句の中でよく知られているほうだろう。菜の花は黄色い。まだ、漱石の時代こう詠むことが許された。しかもこの句は新鮮さを失っていない。筑後川を知らないでもイメージは湧く。
菜の花の黄のひろがるにまかせけり 久保田万太郎
ゆったりとしたイメージが広がる。万太郎らしい句だ。漱石の固有名詞をはずし、中七、下五が面白い。
菜の花といふ平凡を愛しけり 冨安風生
たしかに菜の花は、平凡と言えば平凡である。広い田畑に一斉に咲いた菜の花は圧巻だが、油菜として、どこにでも作られていた。むしろ風生はみずからが平凡を愛する生き方に重きをおいて見せている。
本を読む菜の花明り本にあり 山口青邨
学者であり、俳句作家であり、東北人という青邨。青邨には同じような句に、〈本を読む一位樹の雪の明るさに〉*一位樹=いちい*がある。
家々や菜の花いろの燈をともし 木下夕爾
いまでこそ燈ともし頃の光景はかわったが、裸電球の時代、黄色(菜の花色)に灯る家々の、その明りが届くところに菜の花が咲いている。その景色はとてもやはらかく、なつかしい叙情を誘う。
実に、菜の花はこの叙情をまぬがれがたい季語なのでもある。
べたべたに田も菜の花も照りみだる 水原秋桜子
その叙情を「べたべた」と表現した。ある種の反骨であろう。春の強い日ざしに照らされて乱れるという。
菜の花の夕ぐれながくなりにけり 長谷川逝水
春分の日の前後、夕暮が長くなる。そこをうまくとらえている。
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菜の花やそこだけ明るき谷の邑 (時雨 愚作)*邑=むら
過疎と超高齢化のなかで、寂しさを増していく谷あいのむら。谷間の日暮れは早い。だが、菜の花畑だけはまだ明るさをのこしている。
(2006.3 つづく)
■菜種梅雨(なたねつゆ)⇒催花雨(さいかう)とも
菜の花が咲く頃の長雨を言う。春の季語。
唄わねば夜なべさびしや菜種梅雨 森川暁水