芭蕉の蝉
閑かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
(しずかさやいわにしみいるせみのこえ)
1 はじめに
『奥の細道』中一、二の傑作と言われる。
芭蕉の数ある名句の中で屈指の句だろう。
大岡信『百人百句』も、芭蕉でこの句をとっている。
「奥の細道」の、山形・立石寺(りゅうしゃくじ・現「りっしゃくじ」とも)の段にある。
「奥の細道」は、あくまで俳文紀行集である。
この句だけで鑑賞できるが、立石寺の紀行文、あるいは立石寺の様子を知るとさらに印象が強くなる。
2 初案
この句の初案は、旅の同行であり、弟子である曾良(そら)の『俳諧書留』によって
<山寺や石にしみつく蝉の声>
だったことがよく知られている。
この初案から「山寺」を前の紀行文で述べると、初五で「山寺」をはぶくことが可能となり、
この時期、芭蕉がしきりに考え、説いていた「閑」を表現できる。
3 再案
さらに再案は、
<さびしさや岩にしみ込む蝉の声>
だったと言われてきたが、これは、この句形を書いたとされる風国の誤りだという説が有力だと思う。
(参考・今栄蔵→阿部正美『国文学』S61-9)
つまり初五の「さびしさ・や」はなかったという。「さびしさ・の」という案もあったとされている。
4 「閑かさ」
しずかさという場合、こんにちでは「静かさ」と書くのが普通。
ただ「閑寂」とか「閑静」は今日でもよくある表現だ。この「閑寂」の「閑」がしずかさ、「寂」がさびしさである。
5 「蝉」議論―なに蝉か?
この蝉は何蝉かについて、斉藤茂吉と小宮豊隆の間で、斉藤が「油蝉」・小宮が「ニイニイ蝉」を主張し論議されたが、のち斉藤が現地調査した結果、小宮説に従った、という。
蝉の数について一匹から群声まで諸説がある。(参考・「阿部」上記)
6 日時
芭蕉と曾良が立石寺についたのは、元禄2年5月27日の日暮れに近い時間。こんにちの陽暦に直すと7月13日。「当日は天気もよく、芭蕉たちは蝉時雨を浴びたはず」(安東次男『芭蕉百五十句』)という説が有力。
7 芭蕉の蝉の句
ほかに芭蕉の蝉の句は、『猿蓑』(さるみの)の
<頓(やが)て死ぬけしきは見えず蝉の声>
がよく知られている。
8 「石」から「岩」へ
立石寺は、奇岩がつらなる。芭蕉は山上の本堂に登ったとき、
<岩に巌を重ねて山とし、松柏年古り、土石老いて苔滑らかに>・・と書いた。
立石寺は「岩」の寺だという認識があったのだから、
初案の「石」は、立「石」寺という寺への「挨拶」として選ばれたのだと考えたい。
9 「岩にしみ入る」
「しみつく」「しみ込む」に対して「しみ入る」が、客観性を強く持つというより、岩が芭蕉の「身体(身)」と重なる表現になっていることが大切である。
さらに「岩に」の「い」音がポイントである。
10 音
句の音を調べるためにローマ字で書いてみると、
sizukasa ya iwa ni simiiru semi no koe
となる。(「し」は単に si とした。)
母音が、[i]・[a]から[i]・[o]・[e]へと移ることがはっきりわかる。閑寂の中で「蝉の声」だけが動く。
(ただ「石に・・」では「岩に・・」とくらべて、( isini と iwani )[ i ]がかさなりすぎのきらいが感じられる。)
つまり母音全体は「い」音が主で、副音は「あ」から「え」と「お」へ移る。
また、子音はあくまで[ s ]が基調である。
これが、蝉の声が「岩にしみ入る」という身体感覚(岩にしみ入るのだから、作者の耳だけではなく、身体全体にしみ入る感じ)を呼び起こし、安定したリズムをも形成していることに注目したい。
「しみいる」ような蝉の声はニイニイ蝉しかない。とすると、蝉は油蝉ではなく「ニイニイ蝉」であることが、イメージとしても俳句としても必然性があると知れる。
なお、場所が立石寺とか蝉が何蝉で、多数か少数かなどは、「鑑賞に際して大きな問題ではない」(参考・「阿部」上記)というような見方は、この句の面白さをあえて「見ない」態度である。