ありゃま通信 俳句の頁

いい句好きな句

作家別 〈山頭火〉@

ありゃま通信トップページ|▲「いい句」総合索引

◆種田 山頭火 (たねだ さんとうか)

@どうしようもないわたし

1882(明治15)年〜1940(昭和15)年。山口県生。


きんぽうげ

山頭火10句


分け入っても分け入っても青い山

鴉啼いてわたしも一人

どうしようもないわたしが歩いてゐる

へうへうとして水を味ふ

生死の中の雪ふりしきる

うしろすがたのしぐれてゆくか

雨ふるふるさとははだしであるく

あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

鉄鉢の中へも霰

おちついて死ねさうな草萌ゆる


 ..............................................

どうしようもないわたし

 山頭火の句から10句だけ選ぶのはちょっと無理だと思います。
 でも、私がいい句と思い、好きな句をしぼれば、ざっと上のようなことになります。順不同です。

 私が俳句をはじめる一つのきっかけは、山頭火からもらったのではないか、と思っています。
 五七五と季語、「切り」の三つを大きな「約束」にする俳句に対して、無季自由律を主張する流れがあります。

 山頭火は、俳句を作らない人々にも、俳句でこんなことも可能なんだと示した、重要な役割を果たした一人です。
 俳句は読んで面白い。
 この10句は、いずれも、仏僧の衣をまとい、行乞(ぎょうこつ)して歩いている時の句になりました。

 「どうしようもないわたし」という強烈な自己意識は、山頭火を旅・漂泊・乞食行へかりたて、俳句だけが生きる証のようにつむがれていきました。

 さまざまな悔恨にみちた生、酒に泥酔してのかずかずの失敗や人生の蹉跌・・それらが「どうしようもないわたし」として、歩かせる・・・。

 この「どうしようもないわたし」は、過去のことばかりではなく、漂泊しながらの現在もどうしようもないのです。
 「どうしようもないわたし」は、たとえば、その克明に記された日記を読んでも、読むものを「どうしようもない」なあ・・と嘆息させるような、それでもとにかく受け入れる以外ないものです。

 そんな山頭火の俳句が「好き」というよりも、自分の、別の姿としてありうる・・読むものを、そういう感じに引き込んでしまいます。山頭火最大の魅力でしょう。


ありゃま通信トップページこのページのトップ