花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ(杉田久女)
野の花歳時記 番外の外
■杉田久女。1890年(明治23)〜1946年(昭和21)。
この句をつくったとき(1919年)久女は29歳。俳句をはじめてわずか2年余の作品。Sugita
Hisajo
■花見から戻って、まだ、たかぶっている気分と疲れがまざる気持ちで、帯を解く。
何本も使っている長さ、太さ、色合いもいろいろな紐が、衣や身体にまつわりついてくる。
「花衣」とは花見衣のこと。
■妖艶にして華麗、激しさと倦怠、開放と鬱屈…。それらが読むものの気持ちにまつわる紐のように感じ取れる。
「近代俳句」の傑作中の傑作と思う。
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■自作解説
久女は、俳句評「大正女流俳句の近代的特色」という随筆に、この句について次のように書いている。
<花見から戻ってきた女が、花衣を一枚一枚はぎおとすとき、腰にしめている色々の紐が、ぬぐ衣にまつわりつくのを小うるさい様な、又花を見てきた甘い疲れぎみもあって、その動作の印象と、複雑な色彩美を耽美的に大胆に言い放っている。>@
■句の読み
<「ぬぐやまつはる」と「まつわる紐いろいろ」の重ね継ぎがうまい。…何によらず、締めてゆく手付では現れぬ艶(えん)が、解いてゆく手付には現れるものだ。>d 安東次男「其句其人」
<…“紐”は、単に和服の紐をさすのではなく、当時の女性たちを縛っていた多くの“枷(かせ)”を表しているのです。まだまだ女性の地位が低かった時代、久女のような才能ある女性が台頭していくのが、よほど困難だったことがこの句からも窺えます。>c
黛まどか「知っておきたいこの一句」
黛は、その著の冒頭に久女の掲句を置き、<私が俳句を始めるきっかけとなった1句>と書いている。しかし、「ホトトギス」や虚子への気の遣い方がいささかイヤミだと思える。
初心の頃、久女から俳句のてほどきを受けた橋本多佳子は、次の句を残した。
< 久女終焉の地・筑紫保養院を訪ふ
万緑やわが額(ぬか)にある鉄格子(多佳子)>
橋本多佳子と中村汀女はのちに、昭和初年の女性俳句作家の代表的存在として4T(多佳子、汀女、鷹女、立子)と呼ばれる四人中の二人となる。久女のすぐれた指導力がうかがえる。
■杉田久女は天才か
天才だと思う。
だが、俳句と言う世界最小の形式、短小の言語世界は、天才を受け入れるには余りに窮屈すぎるのではないだろうか…と、今更ながら考えてしまう。でも、久女はそんな「俳句」にしか自らを表現するすべを知らなかった。
今で言うなら、クリエイティヴな世界に憧れるようにして、上野美術学校西洋画科出身の杉田宇内と19歳で結婚。しかし宇内は、画家を志望せず、九州小倉の中学校美術教師として赴任「趣味の人」として、もっぱら教師業に専念。2女をもつ妻、母としての日常だった。
<足袋つぐやノラともならず教師妻>
たまたま小倉に寄寓した実兄に俳句を教えられ、俳句をはじめてわずか2年余にして掲句をつくった。虚子に認められ、以降、本格的に俳句をつくる。
虚子の主宰する俳誌「ほととぎす」の常連ともなり、女性だけの俳誌『花衣』をもった。久女の名句で、この1句どちらにしようか、と迷うのは、「花衣」の句か、英彦山(ひこさん)吟行で得た代表作の一つ、
谺して山ほとゝぎすほしいまま 久女 (谺=こだま)
か、である。
俳句もつぎつぎと名句をものしたが、しだいに虚子にうとまれはじめ、ついに句集を刊行することのない(虚子が「跋」-ばつ-を書かない)まま、突然、「ほととぎす」を除名になった。
この間のいきさつについては、田辺聖子の小説『脱ぐやまつわる…』、最近の研究では、坂本宮尾『杉田久女』などにくわしい。
■いま、杉田久女は――田辺聖子の久女伝『脱ぐやまつわる…』以降
「ホトトギス」主宰者・高浜虚子が、なぜ、突然、何の説明もなく、久女を「除名」(誌上では「削除」)したのか?その真意は今もなお、いな永遠にわからないままであろう。
「ホトトギス」1936(昭和11)年、10月、冒頭の1ページに
<同人変更/従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞/杉田久女三君を削除し…ホトトギス発行所>
と書かれ、直接の関係者はもちろん、読者、俳句関係者すべてが驚いた。
いちばん驚いたのが、久女自身だったであろう。その差配は久女の人生を一変させた。
日野、吉岡の二人は、いわば「路線」問題の延長線上にあった。
これほど、熱心な虚子崇拝者であり、俳句作家が、いともたやすく切り捨てられた。暴君虚子の、実に独裁的で、恣意的おこないである。ここに日本近代社会の「国家」組織の問題を見ることも可能である。
俳句結社の問題は、社会構造を反映して、いまなお大きな問題を示すように思える。これらのことは、別途あらためて書くほかない。
久女が納得するかどうかは別にして、何事か理由の一つでも告げていれば、のちに(終戦直後)夫から精神病院へ送り込まれ、食料さえほとんどなかった病院で、そのまま亡くなることはなかったはずである。
1944(昭和19)年、54歳で亡くなった。神経症はあったかも知れないが、こんにちでは、さまざまな検証を得て、病院内での餓死と見る説が正しいと思う。
近年、再び杉田久女は見直され始めている。AB
虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯 久女
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*参考文献
@『杉田久女随筆集』杉田久女・2003・講談社文庫
A『花衣むぐやまつわる…』田辺聖子著・1987・集英社
B『杉田久女』坂本宮尾著・富士見書房
C『試された女たち』澤地久枝著・1992・講談社